エンジョイ・シンプル・イングリッシュ 和訳

NHKのラジオ番組 enjoy simple english「エンジョイシンプルイングリッシュ」を和訳しています。

「Ayrton Senna ~A Racing Legend~」(2021 年 5 月)

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 フォーミュラワン、F1 は世界で一番難易度の高いカーレースです。自動車が時速370キロ位までスピードを出すレースが毎年約20回開催されます。

 

 1980年代半ば、F1 レースは日本で大変人気になりました。その理由の一つには、ホンダのエンジンがそれらの車に使われるようになったからということがありました。しかし一番の大きな理由はもしかすると、多くの人々がブラジルのレースドライバー、アイルトン・セナのファンだったからかもしれません。

 

 セナはサンパウロに1960年に生まれました。彼の家は裕福でいくつかの企業を経営していました。彼は若い頃からレースを始め、優れたドライバーになりました。彼はプロのドライバーになることに関し、初めは真剣ではありませんでした。彼の父親が彼に家業を運営してくれることを望んだため、彼は一度引退したほどです。しかしながら多くの人がセナがレースを続けてくれることを望んだため、彼はプロドライバーになることを決めました。セナは世界チャンピオンに3回なっています。多くの人が彼は歴史上で最高に偉大なドライバーのうちの一人だと言いました。しかし、1994年5月1日、セナはレース中にコンクリートの壁に衝突し、亡くなりました。彼はまだ34歳でした。

 

 セナが偉大なドライバーだったということを示す話はたくさんあります。例えば、彼は一秒に5回以上踏むことでブレーキペダルを制御していました。このようなことが出来るドライバーは存在しないと言われています。また、彼や他のドライバーがお互いに何度も抜きつ抜かれつしたことで、1992年のモナコでの彼の走りはとても有名です。どのドライバーが勝つのか最後の最後まで誰にもわかりませんでした。今日でもその録画を観戦する人々が多くいます。

 

 人物としてのセナは、すぐに感情を表に出す人として知られていました。彼はレース中にすぐに怒り出しました。また、このことは時に彼をトラブルに巻き込みました。また、彼はあまりにも勝利にこだわったので、そのことが彼にとって他のドライバー達と友人になることを難しくさせることもありました。彼の一番のライバルはアラン・プロスト、フランスのドライバーです。彼らは長年に渡り敵同士でした。

 

 しかしながら、セナはまた良い人物でもありました。例えば、彼の故郷での初勝利の際には、セナは彼の車中で泣きました。また、本田宗一郎本田技研工業株式会社の創業者に会った時に彼は泣いたと言われています。セナは彼の車のエンジンを作った人物に会えて、とても感激したのです。本田宗一郎が亡くなって一年後には、敬意を示すためにセナは喪章をつけてレースに参加していました。セナの大きなライバル、プロストに対する感情も変化しました。プロストの引退後、彼らは良い友人になりました。セナが亡くなるほんの少し前、彼は言いました。「僕の良い友人アラン、今では君はここで僕と一緒にレースをしておらず、とても寂しい。」と。

 

 セナの死から20年以上が経ちましたが、人々は未だ彼が偉大なドライバーだったことを覚えています。そして、彼は日本、そして世界中の人々から亡くなったことを未だ惜しまれています。

 

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