エンジョイ・シンプル・イングリッシュ 和訳

NHKのラジオ番組 enjoy simple english「エンジョイシンプルイングリッシュ」を和訳しています。

「Mizuki Shigeru ~An Extraordinary Yokai Artist~」(2022 年 1 月)

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 日本はそれが持つ多くの漫画のことで知られています。漫画があまりにも有名で、そのためその作者も有名になることも、あります。水木しげるゲゲゲの鬼太郎、の作者もそのような人物の一人です。彼の人生物語はいくつかのテレビドラマにさえ成りました。

 水木は1922年に生まれ、鳥取県で育てられました。子供の頃、彼は規律に従うことを好まず、彼自身のペースで物事を行いました。彼は勉強は嫌いでした。しかし彼は絵が上手で、また、妖怪、つまりゴーストに興味を持っていました。基本的に、彼は彼のやりたいことだけをしていました。しかし、それらの物事に対しては大変熱心に取り組みました。

 水木が21歳の時、彼は大日本帝国陸軍に徴兵されました。彼は規律に従いませんでしたので、老兵が彼の顔を何度も打ちつけました。その後彼はパプアニューギニアにある激戦区の島に送られました。ほとんどの兵士がそこで亡くなりました。

 その戦争での戦いは大変厳しいものでした。ある時、爆撃があり彼の周りの全ての人が死にました。彼は敵が近いことを知っていました。それで彼は彼の服を脱ぎ、海に飛び込み、ジャングルの中を裸で五日間過ごしました。

 彼がやっと彼の駐屯地に戻った時、彼は言われました。「何故お前は戻ったのか?。お前は自害すべきである。」水木はこれを聞きショックを受けました。どうして死ぬ事が生きることより、より良い事なのでしょう?。

 このことの後すぐに、彼はマラリアに罹りました。その時、彼の腕はまた別の爆撃により傷つきました。そして、医師はそれを切り落とさなければ成りませんでした。

 彼は左の腕を失いました。しかし、水木は死ぬよりは良い事だと考えました。島で彼が過ごす期間、彼は多くの兵士の死を見ていました。水木にとって、これが戦争のうち一番大変な物事だったのかも、しれません。

 水木が彼の腕を失ったあとに回復した際、その島の原住民の村を彼はしばしば訪れました。水木は彼らの力を抜いた生活様式を、水木の人生観に合った物だと感じました。彼はその戦争が終わった後、そこに住みたいと思いました。しかし彼は彼の両親が彼のことを待っているため、日本に帰国しました。

 日本に帰国した後、彼は絵描として働き、美しいゴーストの絵を多く描きました。これは驚くべきことです。何故なら彼は彼の右手で絵を描くことを訓練しなければならなかったからです。彼は彼の腕を失う前には左利きでした。その時期、彼はまた、戦争の苦難がどんなものかを表す漫画を幾つか描きました。彼はとても忙しく働き、後に彼のヒット作、ゲゲゲの鬼太郎で成功を得ました。それは彼が幼少期に愛した、妖怪、ゴーストにまつわる物です。彼はかつて言いました。「妖怪、ゴーストは平和な時間にだけ、私の頭に現れてくる。」と。

 水木は2015年に93歳で亡くなりました。彼は柔らかい人物でした。しかし、彼はまた働き者で、彼の本当に最後の日々にまで漫画を描き続けました。水木と彼の妖怪、ゴーストはいつまでも愛され続け、記憶に残ることでしょう。

 

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