エンジョイ・シンプル・イングリッシュ 和訳

NHKのラジオ番組 enjoy simple english「エンジョイシンプルイングリッシュ」を和訳しています。

「Tsuda Umeko ~An Ambitious Educator~」(2022 年 3 月)

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 明治時代の間、日本政府は西洋文化を学ぶために海外に人材を幾らか使節するということを実施しました。このプロジェクトの一部において、1871年、アメリカに五人の若い女性が向かいました。

 「この少女は若すぎる。貴方は彼女が向かえると確信しているのか?。」この派遣に参加する職員は津田梅子のことをこう言いました。その時、彼女はたったの6歳だったのです。

 後に梅子は日本における女性の暮らしを向上するために懸命に尽力しました。彼女は高く評価される女子大学、今では津田塾大学と知られる大学を設立しました。

 

 11年間のアメリカでの生活の後梅子は1882年、日本に戻りました。日本での生活は初めは違和感がありました。なぜなら彼女は彼女の持つ日本語についての能力をほとんど忘れてしまっていたからです。しかし、彼女にとって日本での女性の暮らしの質は大きな問題でした。日本における少女は良い母、良い妻になるために学校に通うのでした。アメリカではそれは異なっていました。

 日本における多くの女性はその当時、職を得ていませんでした。そして、彼女たちは若い年齢で婚姻していました。梅子の両親は彼女が結婚することを望んでいましたので、彼らは彼女を多くの男性に会わせました。しかし、最終的には彼女は婚姻しないことを選びました。彼女は日本における女性の暮らしの向上を助けること対し働きかけることをしたかったのです。彼女は考えました。「日本における女性は、彼女たちは男性よりも価値がより低い物だと考えている。彼女たちは社会を変えようとは考えてはいない。」と。

 

 梅子は、家庭においても社会においても彼女たちは重要な物になり得るということを女性たちに教えたいと考えていました。彼女は男性と全く同じよう、彼女たちも重要な物なのだと女性たちに理解させる援助が、第一歩なのだと感じていました。これを行うためには梅子は、良い教育を女性たちは得なければならないと考えていました。

 その時、梅子は英語教師として働いていました。しかし、彼女はもっと多くのことをしたいと望んでいました。そうして彼女はアメリカに再び向かいました。彼女は彼女の残りの人生をアメリカで過ごすということも考えていましたが、彼女はまた戻ることを決めました。なぜなら、彼女は日本における女性をほんとうに強く助けたかったからです。

 日本で彼女は女性教育の重要性についての講演を行い、またいくつかの論文を書きました。1900年、彼女は英語学習のための女子大学、西洋方式の教育を提供する学校、を開校しました。しかし、その学校はいつでも資金が十分ではありませんでした。梅子は他の講師職にもその学校を経営するために就いていました。また、彼女の友人たち、アメリカ人も、日本人も、彼女を助けました。

 彼女の大変な貢献のため、政府は彼女の学校を初めての女子大学の一つとして、1903年に設立しました。のちにその大学はその名前を津田塾大学と変えました。梅子は女性教育のために懸命に働くことを、1929年、64歳で亡くなるまで続けました。

 梅子の時代、女性は社会において大変小さな権力しか持っていませんでした。しかし、梅子は女性の暮らしを変化させるために活動的に働きました。今日でさえ、人々は彼女がどれだけ懸命に働きかけたのか未だ覚えています。そして、多くの若い女性が彼女が整えた学校で学びたいと思っています。

 

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