エンジョイ・シンプル・イングリッシュ 和訳

NHKのラジオ番組 enjoy simple english「エンジョイシンプルイングリッシュ」を和訳しています。

「Maya Plisetskaya」(2022 年 6 月)

 

 2015年5月2日、マイヤ・プリセツカヤ、20世紀における最も偉大なバレリーナのうちの一人、が亡くなりました。彼女は1925年、ソビエト連邦のモスクワでユダヤ人の家族に生まれました。幼少の頃、彼女は音楽を聴くとじっとしていられず、踊り始めてしましました。彼女の家族の多くはソビエト連邦のバレエ、映画、劇場の分野において活躍していました。プリセツカヤは8歳の時に彼女の芸術的な教育を受け始めています。彼女は有名なバレエ学校に入学し、通常の学校に通いながら週6日そこに通いました。彼女は有名なバレエ教師、エリザヴェータ・ゲルトに学びました。ゲルトはプリセツカヤに素晴らしい才能を見出し、彼女を「私の小さなダイアモンド」と呼びました。

 そうして1937年、プリセツカヤの人生は変わりました。技術者である彼女の父親が警察に連行され、後に処刑されました。連邦当局は彼をスパイだと考えていました。無声映画のスター女優である彼女の母親はカザフスタンに強制送到されました。その当時、連邦当局はユダヤ人が国を奪おうとしている、と恐れていました。ユダヤ人たちは捉えられ、処刑されました。プリセツカヤの家族はソビエト連邦の敵だと呼ばれていました。

 1943年、プリセツカヤはボリショイバレエ団に入団し、スターの一人となりました。彼女の動きと彼女のとても力強い跳躍の様式は彼女の特徴となりました。彼女は情熱と共に踊りました。ボリショイでの彼女の初めての公演期間では、彼女は20以上の主要な役を、多くの有名なバレエ演目、例えば白鳥の湖や眠れる森の美女、の中で演じました。プリセツカヤは彼女のバレリーナとしての50年間の間に、2万回以上白鳥の湖を演じたことがあると言います。彼女は「瀕死の白鳥」での演技もまた、有名でした。

 プリセツカヤはボリショイバレエ団員として1959年にアメリカでの初公演のために、アメリカに行きました。この事は彼女にとって、また世界にとって重要な公演でした。その時まで、彼女はソビエト連邦の国外に出国することは許されていませんでした。ソビエト連邦は彼女が亡命を試みるのではないか、彼女はスパイになる可能性があるのではないかと考えていました。プリセツカヤは、自分はスパイではない、国外に行きたい、と言う事を何度も行いました。彼女は彼女のその機会のために長い間戦わなければ成りませんでした。とうとう、彼女の希望は叶ったのでした。彼女は彼女の国のスターになりましたし、そのとき、彼女は世界のスターになりました。

 プリセツカヤはまた、他の芸術分野にも挑戦しています。彼女は演劇や映画の中でも演じました。そして人々は彼女の動きの様式を愛しました。彼女は日本にも何度も来日しましたし、能の一節を演じたことさえあります。彼女は89歳まで、情熱と共に舞台で踊り続けました。

 プリセツカヤのことばが在ります。

「未来の世代の方々、聞いてください。最後の最後まであきらめないでください。止まらないで。最後の瞬間まで戦ってください。私の勝利はこのためなのです。他には何もありません。人格が運命となるのです。」

 

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