エンジョイ・シンプル・イングリッシュ 和訳

NHKのラジオ番組 enjoy simple english「エンジョイシンプルイングリッシュ」を和訳しています。

「Edith Piaf」(2022 年 7 月)

 

 「シャンソン」はフランスの音楽のジャンルの名前です。しかし、「シャンソン」とはフランス語で「歌」という意味でもあります。ですから、フランス人にとってそれは音楽の一ジャンルというだけでは有りません。シャンソンは一人の歌手により世界的に有名になりました。

 1915年、ある少女がパリの貧しい地区に生まれました。彼女は成長し有名な歌手、エディット・ピアフとなりました。彼女の父親はサーカスの芸人であり、彼女の母親はカフェの歌手でした。彼らはとても貧しい家庭でした。そしてエディットは子供には不健康な環境の中彼女の祖母と暮らす為に家を出されました。しかしこの特殊な子供時代が大きくエディットのパーソナリティに影響を与えました。

 エディットが7歳の時、彼女は彼女の父親と暮らすようになりました。彼は路上で芸を披露し、そして彼女はそれを見る観客からお金を集めていました。しかし彼女は15歳の時、一人で生きていくことを決めました。彼女は生きる為に路上で歌を歌いました。

 1935年、有名なナイトクラブの経営者が彼女の歌を耳にし、彼女は彼のクラブで演じるようになりました。エディットは身長が142cmしかありませんでした。また経営者は彼女の路上で歌うのが鳥のように見えたので、彼女は「小さな雀」というニックネームを与えられました。すぐに「小さな雀」は広く知られるようになりました。

 

 ある日、クラブ経営者が殺害されました。警察は間違えて彼女が殺害者だと考えました。これは真実ではありませんでした。そしてそのことは彼女の歌手としての経歴に傷を残しました。幸いなことに、作家や俳優、そして様々な芸術家たちが、エディットが歌手としての人生を続けられるよう支援を行いました。レイモン・アッソ、ある作詞家、はそのうちの一人です。エディットは一度も歌を習ったことがありませんでした、それで彼は彼女に歌を教えました。彼女はより良く、より感情的に歌う方法を学びました。アッソに書かれた彼女の曲のうちの一つがヒットとなり、エディットはすぐに大スター、エディット・ピアフとなりました。

 この頃には、ピアフは才能のある若い人物を発掘し、彼らがスターになることも援助していました。彼女は言いました。

「頂点に辿り着いた時、他の人たちのためにエレベータを下に戻しておくことを忘れないでください。」

 エディットはまた、しばしば恋に落ちました。彼女の有名な曲、ばら色の人生、は歌手、俳優であるイヴ・モンタンとの恋愛期間に書かれました。のちにエディットはプロボクサーに出会い、彼女たちは恋に落ちました。しかしボクサーの彼は航空機事故で亡くなりました。次の年、エディットの歌、愛の讃歌がまたも大ヒットとなりました。

 この後の人生は彼女にとってあまり幸せなものではありませんでした。彼女は交通事故に数回遭い、ドラッグを使用するようになりました。しかし彼女は歌うことはやめませんでした。彼女は1963年に彼女が亡くなるまでステージで歌い、曲を発表し続けていました。彼女の力強い歌声はいまだに世界中で愛されています。そして現在、彼女の歌は音楽のある一つのジャンル、シャンソン、として認識されています。

彼女は言いました。

「私は歌を歌うことを止められない、なぜなら歌う事は私の人生だから。」

 

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