エンジョイ・シンプル・イングリッシュ 和訳

NHKのラジオ番組 enjoy simple english「エンジョイシンプルイングリッシュ」を和訳しています。

「Hitomi Kinue」(2023 年 2 月)

 

 2021 年、東京オリンピックパラリンピックが開催され、女性選手達がさまざまな陸上競技で競い合いました。しかし、このことは 1928 年のアムステルダムオリンピックまで不可能なことでした。この大会に於いて一人の選手が、メダルを勝ち取った日本初の女性と成りました。彼女の名前は人見絹枝です。これは彼女の物語です。

 人見は 1907 年に岡山県に生まれました。若い時から、彼女は強くがっしりとしていました。彼女は優れたテニス選手であり、また陸上競技も得意でした。彼女は走り幅跳び円盤投げ、短距離の経験がありました。大学時代、人見は世界記録を更新し始めました。1926 年、彼女はスウェーデンでの国際女子競技大会の選手に選抜されました。その大会で、彼女は2つの金メダルを含む4つのメダルを獲得しました。大学を卒業した後、彼女は新聞社でスポーツ記者として働きました。

 

 人見は才能に恵まれたアスリートでしたが、多くの日本の人々は女性がスポーツに参加するべきではないと考えていました。彼女はこう書かれた手紙を受け取った事があります。「身につける人物の太腿を顕にするショートパンツを身につけながら、日本の女性が走るべきではない。」人見は女性選手に対する人々の考え方を変えたいと思っていました。彼女は言いました。

「私について皆さんは罵ってもいいです。しかし私は、私の後から生まれてくる若い女性選手達を守るためにできる全てのことをします。」

 人見は厳しく鍛錬し、幾つかの全国大会で勝ったのち、1928 年のオリンピックの参加に選抜されました。彼女はその大会に参加するたった一人の女性の日本選手でした。彼女は 100m 走で勝利することが期待されていましたが、決勝まで辿り着けませんでした。彼女は部屋で泣きました。彼女はメダルなしには日本に帰ることができないと思いました。彼女の最後のチャンスは 800m 走でした。決勝の前の日の夜、彼女は祈りました。

「明日、速く走る力を私に与えてください。」

 次の日、人見はそのレースのスタートラインに立っていました。そのピストルが鳴った時、彼女は彼女の可能の限り速く、走りました。レース半ば、彼女は6位でしたので、彼女はさらに速く走りました。終わり間近、彼女は目の前の選手を追い抜き、彼女がゴールした時地面に崩れました。銀メダルは彼女の物でした。

 

 オリンピックが終わった後、人見は世界中の大会に参加し続けました。自分が過ごした時間よりも若い選手がより楽な時間を持てるように、彼女は来る日も来る日も尽力しました。それはとても大変な仕事でした、そして彼女は病気になりました。残念ながら、人見は 1931 年 8 月 2 日、彼女がメダルを獲得してから正確に3年後に亡くなりました。彼女は 24 歳でした。日本に於いて女性選手が敬われていない時代人見は、秀でた運動選手になることができるのだと言うことを人々に知らしめました。彼女は若くして亡くなりましたが彼女の刻苦は、今日の女性選手が良い運動選手になると言うことを、よりやりやすくしてくれました。

 

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