広島県、熊野は昔からその、伝統的な筆によってよく知られています。今日では熊野は同じく、その高品質なメイクアップブラシによって有名でもあります。どのようにしてこれらの、世界的に名の知れたツール類が創られたのかを見て行きましょう。
1960 年代の日本において、小型のブラシが中に入ったポータブルなメイクアップキットを、より多くの人たちが持ち歩き始めました。髙本和男氏は熊野にある、彼の家業の筆工場で働いていました。彼はそれらのブラシの品質には不満がありました。なぜなら、それらの筆の先端はカミソリで切断加工されていたからでした。伝統的な熊野筆では、先端は切断しません。髙本氏は思いました。
「もし私が伝統的な熊野の伝統技術を用いれば、世界でいちばんのメイクアップブラシを作ることができるぞ!。」と。
そうして、彼は彼自身の会社を 1974 年に創業しました。
まずはじめに、髙本氏は顔の異なったパーツに異なったタイプのブラシを製造することを決めました。彼は丸型の、あるいは三角型の先端が使いやすいと考えました。しかし、先端を切断せずにこれらの形状をどのように作り上げることができるのでしょうか?。伝統的な書道筆では、型のようなものを利用します。これに似たものが使えるかもしれませんでした。木製の部品を用いて、髙本氏は内部が丸型の型を作りました。彼は筆の毛をその中にはめ込みました。彼がその筆を外に取り出すと、その筆の毛は滑らかな、丸い形状をしていました。それはうまく行きました!。髙本氏はそうして、様々な形状の筆を製造することができました。1981 年、彼の新しいメイクアップブラシの設計が完成しました。これらのブラシを用いると、アイシャドウのようなメイクアップはとてもスムーズにできました。髙本氏は東京になんども彼のブラシを売りに行きましたがその度に、彼は言われました。
「これらはとても良いものだけれど、高価すぎます。」
そうしてある日、彼はニューヨークで成功した日本人のメイクアップアーチストの雑誌記事を読みました。彼は考えました。
「もしこのメイクアップアーチストが私のブラシを使えば、ブラシがより売れやすくなるかもしれない。」
髙本氏は直ちにニューヨークに飛びました。そのメイクアップアーチストは言いました。
「これは素晴らしい!。」
そうして彼女は彼をカナダのコスメ会社に紹介してくれました。その会社の社長が言いました。
「これは素晴らしい製品です。もし、我々が大量発注したなら、あなた方は実際に製造できますか?。」
もちろん髙本氏はイエスと言いました。二ヶ月後、彼はそのカナダの会社からファックスを受け取りました。そのファックスは 80,000 個のブラシの注文でした。髙本氏はわくわくしました。その注文の締め切りを見た時、彼の顔は真っ白になりました。彼にはたったの 2 ヶ月しかったのです!。髙本氏にはある計画がありました。通常、それぞれのブラシは熟練した職人により一つ一つ作られていました。短い時間で多くのブラシを作るために、彼はその制作過程を 80 段階に分割しました。単純な作業は新人でもこなせるでしょうし、複雑な作業は熟練工が担当することができるでしょう。
髙本氏を含むチーム全体は毎日真夜中過ぎまで働きました。なんとか、彼らは 80,000 のブラシを期間内に製造しました。
すぐに、髙本氏のブラシは世界中のコスメ業界とメイクアップアーティストに広まりました。今では、誰もがこれらの愛される熊野ブラシを楽しめるようになりました。