エンジョイ・シンプル・イングリッシュ 和訳

NHKのラジオ番組 enjoy simple english「エンジョイシンプルイングリッシュ」を和訳しています。

「Shibusawa Eiichi」(2022 年 10 月)

f:id:forenglish:20220315173255p:plain

 

 2024年、日本は新しい紙幣を持つことになります。1万円札の表面にある人物は、渋沢栄一になる予定です。渋沢は主に日本の経済力を強化した実業家として知られています。しかし彼はまた、人々の暮らしを良くする為に多くのことを実施しました。これはその彼の話です。

 渋沢は1840年に、現在の埼玉県に生まれました。彼の家は農家であり、また商家でした。ですから、若い時に彼は商品を販売する方法を学びました。渋沢はまた、学ぶことが好きでした。彼は特に漢籍を読むことを好みました。それらを読むことによって、彼は良い事業とは、多くの金銭を稼ぐという事だけではなく社会の役に立つこと、だと学びました。彼は思いました。「私は日本を豊かな国にしたい、そして日本人の生活をより良いものにしたい。」と。

 渋沢が子供の頃は、日本には階級制度が存在しました。人々は普通は、その両親と同じ職業に就きました。しかし渋沢は農家には成りませんでした。彼は一所懸命に働き、士分となりました。程なく、渋沢は幕臣として働き始めました。

 

 1867年、渋沢はフランスへ送られました。そこで、彼は株式会社について学びました。これら株式会社は、スタートアップの為に投資する人たちに所有されます。1800年代中期、日本では大きな企業は通常、家によって所有されていました。これらの家は貨幣の大半を占有していました。この状況を変える為に、渋沢はこの新しい制度を日本に紹介しようと思いました。彼は考えました。

「もし企業の所有者が彼自身を裕福にさせる為だけのことを考えるならば、経済は直ちに成長を止めるだろう。」

 1868年に帰国後、渋沢は明治新政府に出仕しました。数年後、新しい会社を創業し経営することに時間を割く為に、彼はその職を辞しました。この時、彼は日本初の民営銀行を設立しました。彼の人生の時間のうち、渋沢は約500の企業の創立に関わっていると言われています。

 また、渋沢は人々が良い生活を享受することを援助するための、600近い企画を支えていました。このことの一つのよい例は東京養育院でした。この施設は困難にある人々、例えば病人、貧困、孤児など、の援助を行うものでした。彼はまた女性に対する教育は国を成長させると信じていました。そうして、彼は女性のための学校と大学を設立しました。

 渋沢は1931年に91歳で亡くなりました。彼の生きていた間、彼は日本経済をより強くする為に尽力しました。そして同時に、彼は人々の生活を改善することも同じように大切なことだと信じていました。彼は言いました。

「富とは、自分自身を豊かにし、他の人々も豊かにし、国の成長と発展を支えた時のみ、本当の富となる。」

と。

 

プライバシーポリシー お問い合わせ