エンジョイ・シンプル・イングリッシュ 和訳

NHKのラジオ番組 enjoy simple english「エンジョイシンプルイングリッシュ」を和訳しています。

「Ono no Imoko ~Japan's First Diplomat~」(2021 年 11 月)

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 国のトップが他の国のトップと対話したい際、彼らが会うことができない場合もあります。その際トップは伝達事項とともに人を派遣します。この人物は大使と呼ばれます。日本の初めての大使は小野妹子と呼ばれる男性です。その名前「妹子」は「子」をその名の中に持つために女性の名前に聞こえますから、多くの人々は彼の名前を覚えやすいかもしれません。しかし、妹子はその面白い名前を持つ男性というだけではありませんでした。

 

 彼がいつ生まれたのか、いつ没したのか、知られていませんが、彼は7世紀初めに活躍しました。その時代、推古天皇が国を納めていました。そして聖徳太子が彼女を支えていました。妹子は裕福な家の出身で、国に仕えていました。彼は有能で働き者だったことが知られています。607年、聖徳太子は妹子を古代中国における隋の煬帝の元へ送りました。推古天皇は二つの国がお互いに協力し合うことを望んでいました。そうして妹子は煬帝に書簡を持たせました。

 

 7世紀において、海を船で渡る旅は非常に危険なものでした。海図は無く、船は長い航海用には作られていませんでした。そして陸地に辿り着かない乗船員達は、しばしば行方不明になりました。隋への航海はさらに危険なものでさえありました。なぜなら強力な王国、百済のそばを通らなければなりません。今日ではそこは韓国の一部です。妹子と彼の従者達は隋に到着するまでに3ヶ月かかりました。

 

 隋にて、妹子は煬帝に接見し書簡を渡しました。煬帝がそれを読んだ際、彼は激怒しました。煬帝は日本のことを彼の国よりも弱国と考えていましたが、その書簡は強国の指導者から同じくらいの強国の指導者に対しての物に見えました。煬帝は怒りましたがしかし彼は妹子に危害を加えることはしませんでした。煬帝推古天皇への書簡とともに妹子と隋の大使を日本い送り返しました。

 

 日本に戻った後、妹子は推古天皇に上奏しました。「煬帝からの書簡は盗まれました。」と。

 

 大使として、このことは大変な過ちです。しかし妹子は彼の職を失うことはありませんでした。推古天皇はそのことは問題は無いとしました。妹子は煬帝の大使が国に戻る際に、再び隋に向かいさえもしました。

 

 どうして妹子は彼の職を失わなかったのでしょう?。煬帝からの書簡は推古天皇に関して良いことが書かれていなかったと見る向きも有ります。それで妹子は彼女を守るために書簡を隠しました。もしかすると天皇聖徳太子はこの事について内密に知っていたのかもしれません。

 

 2度目の中国への派遣の後の妹子についての情報はあまり多くは存在しません。私たちが知るのは、彼はとても高い位の地位についたことと、彼の息子もまた要人になったということが全てです。

 

 中国への2度の派遣は妹子にとって大変危険なものでした。彼は勇敢だっただけでは無く、彼はまた機智に富んでいました。そのようにして彼は日本と中国がお互いに協力し合うことを実現しました。日本は彼を史上初の大使として持てて、大変幸運でした。

 

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