エンジョイ・シンプル・イングリッシュ 和訳

NHKのラジオ番組 enjoy simple english「エンジョイシンプルイングリッシュ」を和訳しています。

「Saving 669 Children」(2024 年 1 月)

 

 「もし物事が不可能なものでないのならば、そのときはそれを処理する方法が必ず在るはずだ。」

これは第二次世界大戦が始まる少し前に数百人を救った、ある懇篤な人物の言葉です。彼は何をしたのでしょうか。この驚かされる話を聞いて、何をしたのかを見出してみましょう。

 1938 年 12 月、ニッキー、としても知られたニコラス・ウィントンという名のイギリスのビジネスマンがチェコスロヴァキアプラハに居ました。彼は多くの人々が良くない状況にあると聞いて、援助したいと思い、そこに居たのです。その 3 ヶ月前、ドイツのナチスに属した軍隊がチェコスロヴァキアに侵攻しました。多くの人々、特にユダヤ人の人々、が恐れました。そうして人々は彼らの家を捨て、プラハへ難民として向かいました。ニッキーは難民キャンプを訪問し、暖房も食料もなく、寒く湿ったテントで生活する人々を見ました。

 「もし私が何もしなければ、ナチスは来て皆を連行するだろう。」

 ニッキーは子どもたちを救うことは可能かもしれないと考えました。彼は約一月プラハに滞在し、援助が必要な子どもたち全てのリストの作成をボランティアの団体と一緒におこないました。

 イギリスに戻った後、ニッキーは彼の計画について政府に話をしました。始めには政府は拒否しましたが、ニッキーは諦めることはありませんでした。最終的に、政府はニッキーに、将来プラハに戻るだけの十分な金銭を持ち滞在場所を確保できるのなら子どもたちは受け入れられる、と言いました。ニッキーは資金を集めるのに尽力しました。彼はまた子どもたちのための家庭も探しました。このことは難しいことでした。なぜなら、ほとんどの家庭は余分な家計を持っていなかったからです。

 ついに、1939 年 3 月、多くの尽力の数ヶ月後に、初めての子どもたちの団体がイギリスに到着しました。子どもたちは避難し続け、8 月の終わりまでに合計で 669 人の子どもたちがイギリスに安全に到着しました。それとは他の団体が 9 月 1 日に出発する計画だったのですが、悲しいことに第二次世界大戦が始まったためにそれは叶いませんでした。ニッキーは二度とチェコスロヴァキアの子どもたちの救助の話をしないほどに、悲しみました。

 

 約 50 年後の 1988 年に、ニッキーの妻が 1939 年のノートを見つけました。そのノートの中には、ニッキーが救った子どもたちの名前のリストと写真が在りました。BBC はこのことを取材し、ニッキーをゲストにテレビ番組に招聘しました。この時、彼は 80 歳近くでした。この番組はニッキーが救った多くの子どもたちも招いていましたが、ニッキーはこのことを知りませんでした。番組の或る時点で、司会者が言いました。

「もし、ニコラス・ウィンストン氏が貴方の命を救ったのなら、ご起立ください。」

 突然に、彼の周りに座るすべての人たちが立ち上がりました。ニッキーは笑顔で彼の涙を拭いました。今では彼の物語を皆が知るところになりました。ニッキーは 2015 年に 106 歳で亡くなりました。ニッキーは不可能に見える物事を何とかする方法を見つけることで、大変多くの人々の人生を変えました。

 

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