エンジョイ・シンプル・イングリッシュ 和訳

NHKのラジオ番組 enjoy simple english「エンジョイシンプルイングリッシュ」を和訳しています。

「Sen no Rikyu ~The Tea Master "Samurai"~」(2021 年 6 月)

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 日本の茶道、「お茶の儀式」、は今では世界に広く知られています。千利休はお茶を飲むということをアートの領域内に転換させた人物です。江戸時代の始まるちょうど前、これが始まりました。利休は茶道の達人として有名ですが、彼はまたこの時代の期間、政治的な支配力をも多く持っていました。

 利休は1522年に、今日では大阪府の一部であるところの堺に生まれました。彼は豪商の息子でした。彼は茶道の師範、武野紹鴎の元に学んでいました。紹鴎は茶道の専門家というだけで無く、和歌や禅についても多くを知っていました。彼は信じていました。お茶を点てるということと禅というものは同じ根本、つまり心の和平から来る物であると。利休は彼から多くを学びました。

 

 彼が40台後半の時、利休は織田信長の茶道の師範と成りました。これは実質的には政府の官職でした。彼は信長と彼の客に対し、多くの茶会を開きました。この際に茶道は日本で広く知られるようになりました、また、利休も有名になりました。その位の年代に、彼は茶室の中にある囲炉裏の大きさを定めました。彼はまた、新しい型の茶碗を扱うことも始めました。信長の元で働く期間に、利休はゆっくりと彼自身の茶道の型を発展させて行きました。

 

 信長が本能寺の変で死没し、そうして利休は新しい天下人、豊臣秀吉の元に働き始めました。しかし、この期間に実際には何が起こったのでしょう?。利休が本能寺の変について耳にした際、彼は秀吉の元へ駆け着けました。京都での戦いの大将としての彼の役割のための準備の手助けをするためにです。利休は秀吉に金銭を与えさえしたのかも知れません。彼の軍に兵士を用意さえしたのかも知れません。我々が知ることは、利休は秀吉にとって重要な立場になったということです。彼は側近のような者でした。

 

 秀吉の元に数年間仕えた後、利休は彼らの理念に隔たりがあることに気がつき始めました。利休はミニマリズムを好みましたが、秀吉は高価な物事が好みでした。また、利休の一期一会、「初めての人物との出会いを毎回愉しむ。」という概念は秀吉の考え方、「新しく出会う全ての人物から金を作る。」とは調和しませんでした。利休はまた、茶道が政治のコミュニケーションツールとして用いられることを好みませんでした。彼は、茶道はアートの形式に成るべき物だと考えていました。まもなく、利休は秀吉の考え方に反対するように成りました。秀吉はこれを気に入りませんでした。そして1591年、秀吉は利休に切腹で自害することを命じました。通常は侍のみが切腹を命じられます。従ってこの事は、秀吉が利休を侍として認識していたことを示唆しているのかも知れません。

 

 のちに、秀吉は新しい城に茶室を建造している際、言いました。「ああ、利休がこの茶室を設計してくれたのならなあ。」と。

 秀吉は秘かに利休に自害を命じた事を悲しんでいたのかも知れません。

 利休は茶道を発展させたことで有名な、茶道の達人でした。しかし彼はまた、彼が生きていた時代の偉大な大名たちからの尊敬を集めた人物でも在りました。

 

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