もし皆さんが頭を撃たれたなら、どのように行動しますか?。命を守るため、隠れることをするのでしょうか?。マララ・ユスフザイは隠れることをしませんでした。
マララは1997年、スワート渓谷と呼ばれるパキスタン北部の地域に生まれました。彼女の父親は学校を経営しており、マララがまだ小さな頃、彼女はそこへよく遊びに行っていました。彼女は成長するにつれ、勉強や二つの新しい言語、英語とウルドゥー語の話し方を学ぶことが好きでした。
2001年のアメリカ同時多発テロ以降、多くの西側諸国はタリバン、アフガニスタンを実効支配するテロリストグループ、に対して攻撃しました。これによりマララの家の近くの山に向かい、そこで新しいタリバン勢力を構成するメンバーもいました。彼らはスワート渓谷を含む地方行政を掌握しました。
タリバンは女性が学校へ通うことを好みませんでした。彼らはマララの父親に彼の学校を閉鎖するよう言いました。しかし、彼はそれを閉鎖することはしませんでした。彼はマスコミへ何度も出向き、教育の重要性を話しました。マララは学校へ通い、勉強をする事を愛していました。そうして、彼女は彼女の父親を助けることを始めました。
2008年の年末、タリバンは全ての女子校に対し閉校を命じました。この期間、11歳のマララはタリバンに支配されている地域での生活について、BBC のためにペンネームを用いブログを書きました。彼女の言葉は世界中の人々に読まれました。このブログを通じて、マララは発信することの重要性について気がつき始めました。
2009年5月、パキスタン軍とタリバンは和平同意しました。女性は学校に戻る事ができるようになりました。その年の終わりの頃、マララが BBC のブログを書いていた少女だということを人々は知りました。
2012年10月9日、マララのスクールバスが襲撃を受けました。3発の弾がマララに撃たれました。そしてその一つは彼女の頭を貫きました。その他、二人の少女が傷を受けました。タリバンは15歳のマララを襲ったのです。
マララはひどく傷を負い、そのためイギリスに難しい手術を受けるために移動しなくてはなりませんでした。幸運なことに、彼女は助かりました。
この事件の後、多くの世界中の人々はタリバンに対し怒りを得ました。彼女が回復した時、マララは女性のための教育の重要性について話をすることを続けました。彼女は彼女の努力に対してたくさんの賞を受賞しました。また、彼女の国連本部でのスピーチはとても強いメッセージを発しました。彼女は言いました、「私は私の声をあげます。 ー 私が声高に叫ぶためではなく、声なき人たちの声を聞いてもらえるように。」「一人の子供、一人の教師、一冊の本、そして一本のペンが世界を変える事ができるのです。」
後に、マララはノーベル平和賞最年少受賞者となりました。
マララの物語は続いています。彼女は今イギリスに彼女の家族と暮らし、女性のための教育と戦い続けています。近年、彼女は国連平和大使にもなりました。この勇気ある若い女性が近い将来世界にもたらす変化を、多くの人々が楽しみにしています。